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大阪地方裁判所 昭和49年(ワ)2784号 判決

原告

清水洋子

右訴訟代理人

中田明男

外一五名

被告

右代表者法務大臣

倉石忠雄

右指定代理人

緒賀恒雄

外五名

主文

被告は原告に対し金六四万八〇〇〇円及びこれに対する昭和四九年六月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その一を被告の負担とし、その余は原告の負担とする。

事実

〈前略〉

第二 当事者の主張

一  請求原因

1  原告の経歴

原告は、昭和三五年八月一一日大阪地方裁判所雇として採用され、同日から昭和三八年七月一九日まで民事訟廷事務室(昭和三九年一〇月前は民事訟廷部と称されたが、以下においては時期を問わず、民訟という)庶務係に所属して文書の発送、受理等の業務に、同月二〇日から昭和四三年四月七日まで民訟記録係(以下記録係という)に所属して記帳、記録運搬等の業務に、同月八日から昭和四五年一〇月一日まで大阪地裁事務局資料課統計係に所属して統計事務等の業務に、同月二日から同事務局出納課共済組合係に所属して共済事務等の業務にそれぞれ従事し、現在に至つているが、昭和三九年七月一日裁判所事務官に昇任した。

〈以下、事実省略〉

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二原告の記録係における業務内容及び業務量

1  原告が記録係に配置されたときの同係が、更に廃棄係、正謄本係、点検係の三係に分れており、記録係長以下原告とも六名が配置され、点検係は山本茂書記官と原告が担当し、他からの応援はなかつたこと、点検係の業務内容は、記録の点検、記帳、運搬、整理及び雑務に大別され、山本書記官が大阪地裁本庁民事の各裁判部から送付された既済記録及び同地裁支部の上訴記録の内容を見て、不備な箇所があるか否かを点検し、右箇所があれば各裁判部に訂正させるために附箋を貼るという点検作業に従事し、原告は次のようなその余の作業に従事したこと、記帳作業としては、庁内外逓付簿、決裁逓付簿、上訴及び抗告請求接受簿、二審記録返還簿への各記入、管内の各簡裁に対する返還記録の通知葉書の記載、上訴及び移送記録の目録作成があり、目録を作成するときは左手で記録を繰りながら右手で記入するという方法で行なつたこと、記録運搬作業としては、昭和三八年七月から昭和三九年四月までは本館一階北西部の記録係の部屋から本館及び新館の各二階、三階と調停庁舎二階へ、昭和三九年五月から昭和四一年一一月までは本館二階、三階、新館三階、四階、陪審庁舎二階、三階、調停庁舎二階及び法円阪分室へそれぞれ記録を運搬していたが(なお、昭和四一年一二月からは調停庁舎二階がなくなる代りに北新館が加わつた)、法円坂分室を除く運搬先へは土曜日を除く月曜日から金曜日まで連日両手を前に出して記録を前抱えに持つ方法で、法円坂分室へは記録を風呂敷に包んで両手に各一個ずつ提げる方法で運搬したこと、記録の整理、雑務としては、点検の補助、記録の補修等の記録整理、印紙の消印、郵券の計算、綴り漏れ書類の綴り込み、倉庫での記録の捜索、電話の応対、当事者との応対、お茶汲みに従事したことは、いずれも当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果によれば、法円坂分室へは原則として火曜日と金曜日の週二回マイクロバスに乗つて記録を運搬していたことが、また、〈証拠〉によれば、記録の運搬先として、昭和四二年三月から大手前分室が加わつたことがそれぞれ認められる。

2  原告が担当した前記記帳作業について具体的に検討するに、〈証拠〉を総合すると、庁内外逓付簿には受理月日、記録番号、逓付理由、逓付先等を、上訴記録及び抗告記録各請求接受簿には接受年月日、接受番号、原審及び控訴審事件番号、当事者氏名、原審部、控訴審部、原審送付年月日等を、二審記録返還簿には、記録返還月日、原審事件番号、係属部、当事者名、二審結果、送付先を、決裁逓付簿にも記録の所在を明確にする事項を記入(一部ゴムを押捺)しており、更に上訴訂正逓付簿も作成されており、それには年月、事件番号、逓付理由、逓付部等を記入していたこと、民事事件簿は原則として民訟の事件係と廃棄係が所管し、右係がこれに所定事項を記入していたが、原告はこれにも関与し、終結結果が記載漏れになつている場合には終結結果を、上訴が提起されたときには上訴が提起された旨、上訴年月日、上訴番号を、最高裁から記録が返還されたときは上告結果等をそれぞれ記入していたこと、更に、上訴及び移送記録の目録作成に従事し、原告が担当した記帳作業のうちで主要部分をなしており、右目録は記録中の書類の所在を明らかにする記録の索引の役目をするものであつたこと、その他、勉強の意味あるいは山本書記官が忙しいこともあつて、後に同書記官がもう一度点検を行なうことを前提にして補助的に完結記録の点検及び附箋貼りをして手助けしたこと、点検作業の対象記録は大阪地裁本庁の既済記録全部(後に変更されたことは後記のとおりである)と大阪地裁本庁及び支部の上訴記録が全部含まれていたことが認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

3  次に、原告が担当していた記録運搬について検討するに、〈証拠〉を総合すると、運搬先は地裁事務局長室、地裁各民事書記官室、高裁各民事書記官室に大別され、地裁事務局長室へは所長決裁と供閲のために上訴記録、移送記録と上訴返還記録を、地裁各民事書記官室へは訂正と供閲のため既済記録、上訴記録、移送記録と上訴返還記録を、高裁各民事書記官室へは上訴記録を運搬していたこと、記録係の部屋から各運搬先までの距離については、昭和三八年七月から昭和三九年四月までは、本館二階の地裁各民事書記官室四室を一周すると約二三〇メートル、三階の地裁事務局長室を往復すると約二〇〇メートル、高裁各民事書記官室を一周すると約二五〇メートル、新館二階及び三階の地裁民事書記官室各一室を往復すると約四〇〇メートル、調停庁舎二階の右同三室及び地階の一室(執行吏役場)を往復すると約六〇〇メートルであり、昭和三九年五月から昭和四一年一一月までは、本館二階の右四室を一周すると約二三〇メートル、新館三階及び四階を往復すると約五〇〇メートル、陪審庁舎三階(昭和四〇年五月頃から二階となる)の一室を往復すると約二八〇メートル、調停庁舎二階の二室を往復すると約六〇〇メートルで、法円坂分室へはマイクロバスで往復約一時間を要し(但し、五分間のバス停車時間中に記録の受渡しを完了した場合)、運搬距離は記録係の部屋から玄関までと分室玄関から各書記官室まで約一五〇メートルであり、本館三階の地裁事務局長室と高裁各書記官室への距離については従前と変らず、昭和四一年一二月以降は、調停庁舎が取りこわしになり、北新館と大手前分室が運搬先に加わつたが、記録運搬作業(距離及び時間)は従前と比較してあまり変動がなかつたことが認められ、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

〈証拠〉によれば、地裁事務局長室には土曜日を除く毎日朝決裁記録と供閲記録を運搬し、一定時間をおいて右記録を戻すためにこれを受取りに行つたこと、高裁各民事書記官室へは土曜日を除く毎日午後に運搬し、法円坂分室は週二回運搬し、地裁各民事書記官室へは土曜日を除く毎日午後一回あるいは午前と午後各一回運搬したことが認められるが、地裁全民事書記官室のうちどの割合で右各室に記録を運搬したかを明確にする証拠はない。

4  当事者間に争いがない事実と〈証拠〉を総合すると、点検係は昭和四〇年一二月三一日までは大阪地裁本庁の全既済記録と同地裁支部の上訴記録を対象に点検作業を行なつていたが、昭和四一年一月一日から本庁の完結記録については和解調書、判決等の印漏れを点検するにとどまり、点検作業の大部分が免除となり、ほぼ上訴記録に限定され、点検係全体の業務も大幅に軽減されたこと、点検係の業務量はほぼ点検対象の記録の量によつて定まるものであるから、点検係の業務量及びその変化を調べるためには、昭和四〇年一二月三一日までは大阪地裁本庁の既済件数と同支部の上訴件数、それ以後については大阪地裁管内の上訴件数が一つの指標となること、大阪地裁本庁の民事・行政事件の昭和三三年から昭和四五年までの全既済件数と手形小切手訴訟事件(手(ワ)事件)を除いた全既済件数は次のとおりであり(但し、昭和三九年一二月三一日までは後記のとおり手(ワ)事件はないので、手(ワ)事件を除く既済件数は全既済件数と同一である)、

手(ワ)事件を除く既済件数 全既済件数

昭和三三年 六二二一

三四年 六一七三

三五年 五九六〇

三六年 五八五三

三七年 五五七五

三八年 六一〇八

三九年 六五八〇

四〇年  七三四四 九〇七〇

四一年  七〇二三 一〇〇八七

四二年  七五八五 一一六六七

四三年  八三二二 一二五〇二

四四年  七五一七 一〇五〇九

四五年  七八八五 一〇三八二

大阪地裁管内の上訴件数は次のとおりであることが認められる。

抗告以外の上訴件数  上訴件数

昭和三三年   九三一 一〇八三

三四年   八五五 一〇三三

三五年   八三三 九八八

三六年   八三一 九五九

三七年   七九二 九〇九

三八年  一〇二〇 一一三四

三九年   九五〇 一〇八八

四〇年  一二〇三 一三二八

四一年  一二九〇 一四三一

四二年  一二二一 一四一二

四三年  一一七五 一三八八

四四年  一〇三一 一三三一

四五年   九三五 一一五一

昭和四〇年一月一日から手形小切手訴訟事件に関する特例手続が施行され、既済件数は激増したが、手(ワ)事件の点検係に与える負担が他の事件と比べてどの程度の割合を占めるのかを明確にする資料もないので、以下の考察においては手(ワ)事件は考慮に入れないこととする。

右の事実によれば、大阪地裁本庁の既済件数(手(ワ)事件を除く)は昭和三三年から漸減し、昭和三七年には最低を記録したが、翌年から増加に転じ、昭和四〇年には急増して昭和三七年以前のうちで最も件数の多かつた昭和三三年に比べて約二割近く増加しており、その後は昭和四三年の八三二二件を除き、ほぼ横ばいの状態となつていることが明らかである。また、上訴事件も昭和三三年から漸減し、昭和三七年には最低を記録したが、翌年から増加に転じ、昭和四〇年には急増して、昭和三七年以前のうちで最も多かつた昭和三三年の件数に比べて約二割増加し、昭和四一年には同じく約三割強増加したが、翌年からわずかずつ減少していることが明らかである。

5  ところで、点検係は点検対象である記録の件数によつ業務量が定まり、昭和四〇年一二月三一日までは全既済記録が点検対象であるから、何らかの制限措置がとられない限り既済件数の増加が直接点検作業の増加に結びつくこととなる。したがつて、単純に結論するならば既済件数の増加率が点検係の業務の増加率に一致するということができる。一方、既済記録は大別して上訴記録と完結記録に分けることができるが、両者の間に点検の密度に差があることは推認するに難くないから、上訴件数の増加も無視し得ないこととなる。

前記認定のとおり、原告の業務のうち主要なものは記帳作業と記録運搬作業であり、記帳作業の主なものは上訴事件の目録作成であるから、記帳作業は主として上訴件数の影響を受けることが推認され、また、記録運搬は地裁事務局長室へは上訴、移送、上訴返還の各記録を、高裁各民事書記官室へは上訴記録をそれぞれ運搬していたことは前記のとおりであるから、これらの逓付先への運搬は既済件数の影響は受けず、主として上訴件数によつて影響されることが明らかである。そして、昭和四一年一月から完結記録の点検作業が原則的に免除されたことにより、原告は完結記録の訂正のための地裁各民事書記官室への運搬、それに伴う庁内外逓付簿への記入、手助けしていた完結記録の点検作業の負担が軽減されたことが推認される。

更に、昭和四二年の原告の作業量についてみるに、昭和四二年の上訴件数が一四一二件であることは前記のとおりであるから、一年間に右一四一二件の記録が記録係に流入し、点検作業を終え、訂正箇所のある記録は地裁各民事書記官室で訂正したうえ、所長決裁を経て高裁各民事書記官室へ逓付されたこととなる。

右約一四〇〇件の一か月の平均件数は約一一六件であり、一か月の実働日数は約二〇日であるから、計算上一日に平均約六件を処理したこととなる。そうすると、原告の一日の平均作業量は、記帳作業としては、約六件に対する上訴記録の目録作成、決裁逓付簿、上訴及び抗告請求接受簿、上訴訂正逓付簿等への記入の外に、二審返還記録の各簡裁に対する通知葉書の記載、返還簿への記入、上訴返還記録の庁内外逓付簿及び決裁逓付簿への記入、補助的に事件簿への記入があり、記録運搬作業としては、右約六件の記録につき地裁各民事書記官室、地裁事務局長室(二往復)、高裁各民事書記官室への送付、運搬であり、右の外に移送記録及び上訴返還記録の地裁事務局長室及び上訴返還記録の原審部への供閲等並びに記録倉庫格納のための記録運搬が含まれ、更に、原告は記帳作業及び記録運搬作業の外に雑務を処理したことは前記のとおりである。

〈証拠〉によれば、調査の結果、昭和四二年三月に記録係から運搬した記録件数は地裁事務局長室へ一〇六件、高裁各書記官室へ七九件、法円坂分室へ原審送付分八九件、補正分五五件、法円坂分室を除く地裁各書記官室へ原審送付分五三件、補正分二九件であること、原審送付分とは上訴記録送付請求に基づき当該記録を記録整理のため原審部へ送付したものを指し、補正分とは通常上訴記録の訂正、補正のため原審部へ送付したものと、上訴審で完結した記録を原審部に供閲のため送付したものが含まれるが、同月分の上訴訂正逓付簿が廃棄ずみであるため、上訴記録の訂正、補正のために原審部へ送付した記録件数は判明せず、調査ではこれを省略したので、右にいう補正分の件数は上訴返還記録の供閲のために原審部に送付した件数であること、一日における運搬元一箇所につき運搬回数を一回とすると、昭和四二年三月中に運搬した件数は、地裁事務局長室については少ない日で一件、多い日で一六件(冊数一六)、高裁各書記官室については少ない日で一件、多い日で一四件(冊数一四)、法円坂分室については少ない日で一件、多い日で二五件(冊数二七)、法円坂分室を除く地裁各民事書記官室については少ない日で一件、多い日で一六件(冊数一六)であり、一件の平均重量は0.55キログラムであることがそれぞれ認められる。

右事実によれば、記録運搬は日によつてその運搬重量に相当ばらつきがあつて、法円坂分室について最も多い日で13.75キログラム、地裁事務局長室と地裁各民事書記官室について最も多い日で8.8キログラム、高裁各民事書記官室について最も多い日で7.7キログラムであつたと推認され、右数値には上訴訂正逓付簿による地裁各書記官室への送付した件数が含まれていないから、それを含めるとその分だけ右数値が増加することとなる。

この点について、前記乙一号証の一(大阪地裁所長の最高裁事務総局人事局長に対する報告書)によれば、原告が担当した昭和三九年五月から昭和四二年三月頃までの間における記録運搬の一回当りの重量について、地裁事務局長室へは平均約三ないし四キログラム、高裁へは右の重量より少なく、地裁各民事書記官室へは平均約六ないし7.5キログラム、法円坂分室へは原則として週二回、平均六ないし7.5キログラムの風呂敷包みを両手に各一個ずつ提げると約一二ないし一五キログラムとなる旨報告されているが、右記録の重量は昭和四二年の上訴記録の六件の平均重量が前記のとおり約3.3キログラムと推計され、その外に移送記録及び上訴返還記録の決裁、供閲が加わること及び昭和四〇年一二月以前の完結記録の補正分を含めると、昭和四〇年一二月までの数値としては十分信頼のおける数値であり、昭和四一年以降の数値としても、地裁事務局長室と高裁各民事書記官室については十分信頼しうる数値であるというべきである。その余の数値は平均重量としては高過ぎると考えられるが、前記のとおり運搬記録の相当激しいばらつきを考慮すると、法円坂分室とそれを除く地裁各書記官室への運搬記録の重量のうち、重いものは右の重量を超えることが推認される。

昭和四一年の大阪地裁の上訴件数が一四三一件であることは前記のとおりであるから、原告の昭和四一年の業務量は昭和四二年のそれと大差ないことが推認される。また、昭和四〇年の大阪地裁の上訴件数は一三二八件であるから、昭和四一、二年の数値と比べやや少なく、上訴事件に関する業務は右の年と比べて少ないといえるが、昭和四〇年は完結記録について点検作業を行なつており、昭和四〇年の手(ワ)事件を除く民事事件の既済件数が七三四四件で、うち完結記録が六〇〇〇件であることは前記の認定件数から明らかであり、これらの記録訂正のための関係帳簿への記入及び記録運搬は相当の負担と考えられる。もつとも、完結記録について補正のために地裁各民事書記官室へ送付した割合を明確にする証拠はないので、その作業量を具体的に明らかにすることはできないが、昭和四〇年の原告の業務量が昭和四一年以後の業務量と比べて相当多かつたことは、完結記録について原則的に点検作業を免除したことからも明らかであるというべきである。

6  昭和四一年一月一日から原則として完結記録について点検作業が免除されたことは前記のとおりであるが、前記乙三号証、三一号証、証人山本茂、同林建蔵の各証言並びに原告本人尋問の結果によれば、昭和四五年一月から手(ワ)事件については受付から確定まで一貫して第一〇民事部(手形部)で処理されるようになつたこと、その後新庁舎が完成しエレベーターが設備されたため記録運搬は手押車とエレベーターを利用して行われることとなり、肉体的負担が大幅に改善されたこと、現在では上訴記録の目録作成は各裁判部で行われることとなつて、記帳作業の主要部分を占めていた目録作成作業が免除されたことが認められ、作業内容は次第に縮少されたことが明らかである。

7  以上1ないし6において認定した事実を前提にして、原告の業務量の程度について検討するに、原告が点検係に配置されていた昭和三八年七月から昭和四三年四月までは、既済及び上訴件数が増加し、その結果業務内容が縮少され始めた時期にあたつていたことが明らかである。そして、右のような重量の記録運搬は、当時の庁舎にエレベーターがなく多数の階段を歩いて昇つたこと、運搬記録の重量にばらつきがあること、法円坂分室を除く各室へは両手を前に出して記録を前抱えに持つ方法で運搬したこと、法円坂分室へは重いときには約一五キログラムを超えるものを運搬していたことからすると、女子職員にとつて腰部、頸肩腕部に相当な負担を与える作業であつたことが推認される。

点検係の山本書記官は、原告が担当していた時期が民事事件の急増の時期であつたので、量的には、他との比較では、一番多忙だつたといえる。長い間この部屋にいるが、原告の業務量は最も多忙だつた人たちの部類に属しており、原告の記帳作業だけでも結構一人前に近い仕事量に達していたのではなかろうかと思つている旨述べており(前記甲二号証)、山本書記官の右供述は、これまで検討してきた原告の業務内容、業務量、既済件数並びに上訴件数の変化、原告が担当していた点検係の補助業務の縮少等の諸事情を考慮すると、十分信用することができるものというべきである。

そうすると、原告の記帳作業だけでもほぼ女子職員一名分の事務量に近く、したがつて、昭和四一年以降昭和四二年三月頃までの業務量は同種(記帳作業)の女子職員の業務量より相当程度超過していたものであり、昭和四〇年の業務量は右時期より更に超過していたと認めるのが相当である。

三頸肩腕症候群の発症

1  先ず、原告が大阪地裁に入所した昭和三七年から昭和四一年までの原告の既往症についてみるに、〈証拠〉によれば、原告に関する昭和三七年以後の大阪地裁共済組合係保存の医療機関等からの診療費請求書には、右期間において原告に関し被告の主張4の(一)の(1)に記載するとおり、その主張の年月に、その主張の診断名で診療費の支払請求がなされており、したがつて、原告は右診断名により治療を受けたことが認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

次に、昭和四二年以降の原告の症状をみるに、〈証拠〉によると、次の事実が認められ、他にこの認定事実をくつがえすに足りる証拠はない。

原告は、昭和四二年二月一日右前腕にかすかな痛みを覚え、同日大阪市旭区所在松本診療所で診療を受けたところ、関節ロイマチスという病名によりアリナミン、カンポリジン(鎮痛剤)の投薬を受け、右痛みは間もなく治まつたが、同月中旬頃右前腕に急に鋭い痛みが走り、二、三日後洗顔の際に右腕の筋肉が引きつり痛みを覚え、肘を曲げることができず、書字は筋肉が引きつれて困難となり、その頃から肩がひどくこりはじめた。同月二〇日過ぎの午後、記録係の部屋で簡裁宛の葉書を書いていた際、右腕の肘から指先に向つて次第に力が脱け、ペンを握つていることができず、これを取り落し、また、右手が冷たくなり、脱力感、感覚鈍麻等の症状が現われた。

そこで、同月二八日市立大学病院で受診したところ、右上肢神経炎と診断され、同年三月八日原告の診察にあたつた右病院整形外科の吉田正和医師によれば、原告の症状は、両側斜角群、肩甲棘筋群、背筋群、腕橈骨筋等に硬化、圧痛、右橈骨神経幹の前腕中央以下、尺骨神経幹の上腕下三分の一に著名な叩打放散痛、右前腕尺骨側半ばより全指尖にわたる知覚鈍麻、両側上肢神経伸展テスト陽性、握力右一九、左一七、頸椎レントゲン六方向像いずれも特別な所見なし、というものであり、更に同医師の原告に対する同月一五日付診断書によれば、「右上肢神経炎、上記により今後約一か月間は重量物運搬や手を持続的に使用する業務を禁じ、通院治療を行う必要がある」と診断されている。原告はその後現在に至るまで継続して吉田医師の診療を受け、同医師は原告の主治医という立場にあつた。原告は同年四月上旬まで約一週間に一回の割合で通院し、主として投薬による治療を受け、また併行して鍼灸治療に通つた。

しかし、原告は同年三月中頃から手のしびれがひどくなり、肘から下がだるく、鉄棒をぶら提げているような症状を覚え、腕や首を回すことも、箸で豆をつかむこともできず、ハンドバックも左手に持つて通勤し、食欲はなくやせていつた。吉田医師の昭和四二年四月八日付診断書によれば、当時原告は「前回診断時より症状改善せず、業務続行は不可と考えられるので向後一か月の休業を要する」と診断されている。原告は同月一〇日から同年五月六日まで約一か月間病気休暇をとつて鳥取県の母のもとへ帰郷し、一日に三、四回温泉に入るという温泉療法を行うかたわら、市立大学病院から出た薬の服用を続け、玉尾治療院へ鍼灸治療に通い、日常生活の身のまわりのことは母に任せた。その結果、握力は右二四、左二二に回復し、橈骨神経幹の叩打放散痛は消失し、肩こり、右上肢の疼痛が軽減された。

原告は同年五月八日から再び出勤したが、吉田医師の同月一〇日付診断書によれば、そのときの原告の「症状は目立つて軽減しているが、尚激しく手指を使うと再燃の恐れがあるので休業以前のものよりも軽い業務ならば就業してよい、通院加療は続行すること」と診断されている。原告はその後ほぼ二週間に一回同医師の治療を受け、また一週間に一回鍼灸治療に通つた。職場復帰後、手のしびれはなくなつたが、記録をめくるのがつらく、漢字は書いているうちに字体がくずれる状態となり、梅雨に入ると疲れ易く、朝起きることが困難で、肩こりは前より軽くなつたものの依然として続いていた。夏になつて症状の改善が進んだが、同年九月から一〇月にかけ寒さを感じるようになると、右足がだるく、階段を昇ると足がつり、右上肢に血行障害が現われ、寒さが厳しくなると、書字の後の手の震え、右頸部、肩背の突つ張りやこり、右下肢の疼痛、感覚鈍麻の症状が出て、就寝中こむら返りを起し、初診時の症状の外右坐骨神経炎の症状が現われ、これらの症状は同年一二月から翌四三年一月にかけて悪化した。同年二月二一日に撮影された胸椎X線写真には胸椎に軽度のS字状側彎が認められた。同年四月から母と弟の三人で市営住宅に住むようになり、家事はすべて母が行なつた。

原告は昭和四三年四月記録係から資料課統計係に配転となつたが、その後の症状は部分的改善はあつても全体として急速な回復はみられず、梅雨時に入ると、胸が刺すように痛み、同年六月には肋間神経痛と診断された。同年七月に実施された吉田医師による特別定期健康診断の結果によれば、疲れ易く夜眠れない、仕事を続けると肩がこり、右腕がだるくなるという原告の主訴のほか、両側斜角筋、僧帽筋、棘下筋、菱形筋、広背筋、仙棘筋、大胸筋、上腕二頭筋、腕橈骨筋、手根伸筋等に圧痛あり、両側上腕神経叢に圧痛と放散あり(いずれも右側に著しい)、右尺骨神経幹の上腕下部に叩打放散痛が強く、神経伸展テストは両側正中神経に陽性、斜角筋緊張試験陽性、上肢発汗異常・上肢の萎縮・手指部の異常・指のしんせんはいずれもなし、右上肢の反射やや低下、握力右二三、左二五、右手指に軽い知覚障害あり、皮膚描画症陰性、X線写真により頸椎から胸椎にかけて軽いS字状側彎を呈するという症状で、「脊柱側彎、頸腕症候群、右上肢神経炎、要治療継続」と診断された。その後も吉田医師のもとへほぼ一月に一回程度の通院治療を受け、鍼灸の治療にも通つた結果、症状は漸次改善に向い、昭和四四年一一月に実施された市立大学病院医師による特別定期健康診断の結果では、原告の主訴は、疲れると腕がだるくなり、肩、背、足が突つ張つて痛い、一定の姿勢を保てない、頸に運動制限と運動の際の痛みがあり、両側頸部神経叢に圧痛があるというものであり、症状は両側上腕神経叢圧痛なし、アドソンテスト・アレンテスト・過外転試験・斜角筋緊張試験は陰性、上肢発汗異常・上肢の萎縮・手指部の異常・指のしんせんはいずれもなし、上肢の反射正常、握力右二五、左二五、右第七頸椎神経領域に知覚障害を訴える、いわゆる胸郭出口症候群の徴候なし、せん細運動の障害なしというもので、「右上肢に訴えはあるが、他覚的所見に乏しい。経過観察の必要あるが、平常の生活で良く、医師による直接または間接の医療行為は不要」と診断されている。原告は昭和四四年にも両肩こり、頸の痛さ、腕のだるさ、腰が冷えるという症状が続いており、同年六月の背筋力測定では四一キログラムであつた。昭和四五年には足のしびれもとれ、昭和四八年三月には仕事を詰めてしてもよくなり、残業もやれるような状態になつたが、頸部と肩背にこりが残つており、また、仕事が過ぎると腕がだるいという症状が現われていたが、これも昭和五二、三年にはほぼ消退した。

2  〈証拠〉によれば、頸肩腕症候群については種々の医学的見解が発表されており、その名称自体をどのように表現するかということから意見の相違がみられ、その定義も医学の専門分野を異にすることにより種々の差違が存することが認められる。しかし、基発第五九号通達及び解説には頸肩腕症候群の定義がなされており、その通達が出された経緯からみて最も標準的見解というべきであり、右解説三ないし五には次のとおり述べられている。

「三 いわゆる「頸肩腕症候群」とは、種々の機序により後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手及び指のいずれかあるいは全体にわたり「こり」、「しびれ」、「いたみ」などの不快感をおぼえ、他覚的には当該部諸筋の病的な圧痛及び緊張若しくは硬結を認め、時には神経、血管系を介しての頭部、頸部、背部、上肢における異常感、脱力、血行不全などの症状をも伴うことのある症候群に対して与えられた名称である。

四  これらの症状は、外傷及び先天性の奇形による場合のほか、次に掲げる疾病などによつても発症するので、その鑑別診断は慎重に行われなくてはならない。

(1)  頸・背部の脊椎、脊髄あるいは周辺軟部の腫瘍

(2)  頸・背部及び上肢の炎症性疾病

(3)  関節リウマチ及びその類似疾病

(4)  頸・背部の脊椎、肩甲帯及び上肢の退行変性による疾病

(5)  胸郭出口症候群

(6)  末梢の神経障害

(7)  内蔵疾病に起因する諸関連痛

(8)  類似の症状を呈しうる精神医学的疾病

(注) 上記(1)から(8)までに掲げた疾病に該当するものであれば、ここにいう頸肩腕症候群ではない。(1)から(8)までに該当する疾病と診断されたものの中には、当該疾病について別途に業務上外の判断を要するものもある。

五  四に掲げた疾病及びいわゆる「頸肩腕症候群」の診断に際し一般に用いられている主な神経及び血管圧迫テストの手技と評価については別紙(省略)のとおりである。

いわゆる「頸肩腕症候群」の症状を示すものに対するこれらのテストは、素因や基礎疾病の証明となる場合があるが、一方業務に起因すると考えられる場合にも陽性になることがある。

また、頸椎エックス線所見については、臨床所見との間に必ずしも相関しない場合が少なくない。

したがつて、これらの検査結果等についての意味づけは慎重にしなければならない。」

3 そこで、外傷及び先天性の奇形、その他業務以外の他の疾病の有無について検討する。

前記認定の原告の既往症及び症状のうち、先ず、関節ロイマチスという病名で治療を受けた点についてみるに、前記吉田証言によれば、関節ロイマチスという診断名を下すためには、症状が相当程度に進行して外見から判断しうる場合を除き、血清学的検査が必要であること、それにもかかわらず松本診療所ではASLO、RA、CRPなどの血清学的検査がなされていないことが認められ、その治療もアリナミンとカンポリジン(鎮痛剤)の投薬のみであることは前記のとおりであり、これらの事情と右吉田証言を総合すると、関節ロイマチスという病名は健康保険の診療費請求書を提出するために適宜つけられた保険病名であり、原告は昭和四二年二月頃に関節ロイマチスに罹患していたとはいえず、むしろ前腕の症状は昭和四二年二月から右上肢に発症した症状の一つと認められる。

また、右吉田証言によれば、昭和三九年五月から昭和四〇年二月までの肩痛症という診断名も特別の病名を示すものではなく、肩痛という症状がその期間に表われたことを示すものに過ぎないことが認められる。

次に、昭和四〇年七月のノイローゼ、同年八月の右肩打撲症についてみるに、右診断名についてその具体的症状、程度、受診した病院名(専門医か否か)、その治療内容を明らかにする証拠はなく、前記乙一号証の一によれば、原告は昭和四〇年に病気休暇一日をとつたことが認められるが、他方、原告が昭和四〇年に顔面〓、口内炎、右乳線腫、両第一趾〓疽、右腋窩右そけい部〓、頸部急性湿疹という診断名で治療を受けたことは前記認定のとおりであるから、右一日の病気休暇がノイローゼあるいは右肩打撲症の診断名のためにとつたものであると断定することもできない。原告は昭和四〇年頃ノイローゼで受診したことを全面的に否定しており、証人山本茂は、記録係の部屋で原告と机を接して仕事をしていたが、原告について昭和四二年に右上肢に症状が現われるまで健康な人であると考えており、特に周囲に印象づけるような病気にかかつたことがないと証言している。右の事実に、右診断名は診療費請求書により判明したものであることを考慮すると、原告が昭和四〇年にノイローゼに罹患したという事実は認定することができず、右肩打撲症についても少なくとも昭和四二年二月以降の発症に影響を与えるような程度のものではなかつたというべきである。

更に、昭和四三年二月二一日及び昭和四三年七月の胸椎X線撮影において原告の胸椎に軽度のS字状側彎が認められることは前記のとおりであるが、一方、昭和四二年二月二八日の市立大学病院の初診時のX線撮影時において何らの異状が認められなかつたことも前記のとおりであり、吉田証言を併せ考えれば、右症状は個々の骨の形態には異常がないことから右側彎は習慣性あるいは疼痛反射性のもので、一時的に現われた症状であると認めるのが相当である。

その余の前記診断名は、そのとおりの疾患があつたとしても基発第五九号通達の解説四に照して頸肩腕症候群と無関係であることが明らかである。

以上のとおりであるから、原告には頸肩腕症候群を惹起させる他の原因疾患は存在しなかつたというべきである。

4 前記1において認定した原告の昭和四二年二月以降の症状は、同年九月ないし一〇月から現われた右下肢の症状を除いて基発第五九号通達の解説三の定義の症状にほぼ合致していることが認められ、更に原告には他に原因症患が存在しないことも前記のとおりであり、これらの事実と前記吉田及び平林の各証言を総合して判断すると、原告の昭和四二年二月以降の症状は、昭和四二年九月ないし一〇月から現われた右下肢の症状、具体的には右下肢のだるさ、足のつり、右下肢の疼痛、感覚鈍麻、こむら返り、右坐骨神経炎を除いて、頸肩腕症候群であることが明らかであり、昭和三九年五月から昭和四〇年二月までの肩痛症は頸肩腕症候群の前駆症状の現われであつて、昭和四二年二月に至つて本格的に発症したことが認められ、右認定に反する前記証人吉田及び同馬場の各供述部分は措信できず、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

四原告の頸肩腕症候群と業務との因果関係

1  裁判所職員の頸肩腕症候群の公務上外の認定に関しては、昭和四五年最高裁人給A第七号「手指作業に従事する職員の手指作業に基づく疾病に関する公務上の災害の認定基準について」と題する最高裁事務総局人事局長依命通達が出されており、また、私企業の労働者に関しては、適宜労働基準局長通達が出されている。右の各通達は公務災害あるいは労務災害の認定業務を行うにあたり、その業務の画一性、斉一性、迅速性を確保するために出されたものであり、その目的、性質から見て、公務災害あるいは労務災害に基づく損害賠償請求訴訟における業務と疾病との因果関係の存否を判断するうえにおいて前記通達の認定基準が全面的に適用され、右通達の基準のみに拘束されるものではないというべきであるけれども、右の因果関係の存否を判断する基準としてこれらの通達はくわしい認定基準を定めているので、本件損害賠償請求訴訟においては、これらの通達を参照にしつつ、原告の従事した業務内容、業務量、業務従事期間、作業環境、当該公務員の肉体的条件、疾病の発生・症状の推移と業務との相関関係、原告に疾病を発症させる他の原因の有無などを総合して判断し、当該疾病の発生が医学的常識に照らし業務に起因して生じたものと納得することができれば足りるものと解するのが相当である。

2  前記通達のうち、頸肩腕症候群に関する業務上外の認定基準として最も詳細に認定の基準及び方法を定めているのは基発第五九号通達及びその解説であるから、本件においては、先ず、右認定基準について検討する。

基発第五九号通達には次のとおり規定されている。

「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について

標記については、昭和四四年一〇月二九日付け基発第七二三号通達「キーパンチャー等手指作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」をもつて指示したところであるが、今般、前記通達を下記のとおり改め、前記通達を廃止することとしたので、今後はこの通達に示すところにより取り扱うこととされたい。なお、この通達の解説部分は、認定基準の細目を定めたものであり、本文と一体化して取り扱われるものである。

1 指先でキーをたたく業務、その他上肢(上腕、前腕、手、指のほか肩甲帯も含む)を過度に使用する業務に従事する労働者が、次の(1)〜(3)に該当する症状を呈し、医学上療養が必要であると認められる場合には、(1)については労働基準法施行規則第三五条第一三号に、(2)及び(3)については同条第三八号に、それぞれ該当する疾病として取り扱われたい。

((1)、(2)は省略)

(3) 上肢の動的筋労作(例えば打鍵などのくり返し作業)または上肢の静的筋労作(例えば上肢の前・側方挙上位などの一定の姿勢を継続してとる作業をいうが、頸部を前屈位で保持することが必要とされる作業を含むものとする)を主とする業務に相当期間継続して従事した労働者であつて、その業務量が同種の他の労働者と比較して過重である場合または業務量に大きな波がある場合において、次のイ及びロに該当するような症状(いわゆる頸肩腕症候群)を呈し、それらが当該業務以外の原因によるものでないと認められ、かつ、当該業務の継続によりその症状が持続するか、または増悪の傾向を示すものであること。

(イ及びロは省略)

2 症状の判断に当つては、前項に掲げる各症状に対する診断病名は多種多様にわたることが考えられる実情にあるので、単に診断名のみをもつて判断することは厳に慎しみ、専門医によつて詳細には握された症状及び所見を主に行うこと。

解説

一  この解説においては、主として記の1の(3)について述べることとする。

(二については省略、三ないし五については既に記載したとおりである)

六 通達の1の(3)の「当該業務の継続によりその症状が持続するか、または増悪の傾向を示すものであること」とは、業務上外の認定にあたつて、一定期間経過観察を行わなくてはならないということではなく、認定時点において、過去の症状経過からそのような傾向が医学的に認められればよい。

七 業務上の認定にあたつては、当該労働者の作業態様、作業従事期間及び業務量からみて、本症の発症が医学常識上業務に起因するものとして納得しうるものであることが必要である。

(1)  作業態様

ここにいう上肢の動的筋労作とは、カードせん孔機、会計機の操作、電話交換の業務、速記の業務のように、主として手指のくり返し作業をいう(これらの業務の中には同時に静的筋労作に該当するものもあるが、同時に双方に該当するものについては、主として手、指をくり返し使用するという点に重きをおき、動的筋労作に分類した)。

また、静的筋労作とは、ベルトコンベヤーを使用して行う調整、検査作業のように、ほぼ持続的に主として上肢を前方あるいは側方挙上位に空間に保持するとか、顕微鏡使用による作業のように頸部前屈など一定の頭位保持を必要とするような作業をいい、手、指をくり返し使用しているか否かは問わない。

(2)  作業従事期間

発症までの作業従事期間は、その作業内容によつて異なり、必ずしも一様ではないが、一週間とか一〇日間という短期間ではなく、一般的には六か月程度以上のものであること。

(3)  業務量

イ  同一企業の中における同性の労働者であつて、作業態様、年齢および熟練度が同程度のもの若しくは他の企業の同種の労働者と比較して、おおむね一〇%以上業務が増加し、その状態が発症直前三か月程度にわたる場合には、業務量が過重であると判断するものとする。

ロ  業務量が一定せず、例えば次の(イ)または(ロ)に該当するような状態が発症直前三か月程度継続している場合には、業務量に大きな波があると判断するものとする。

(イ) 業務量が一か月の平均では通常の範囲であつても、一日の業務量が通常の業務量のおおむね二〇%以上増加し、その状態が一か月のうち一〇日程度認められるもの。

(ロ) 業務量が一日の平均では通常の範囲であつても、一日の労働時間の三分の一程度にわたつて業務量が通常の業務量のおおむね二〇%以上増加し、その状態が一か月のうち一〇日程度認められるもの。

(4)  肉体的条件等

業務起因性は前記(1)から(3)までにより判断されるべきであつて、当該労働者の素因、体格等の肉体的条件またはその他の作業条件は主たる要件ではないが、これらの影響についても考慮を要する場合も考えられるので、留意して判断するものとする。

八 いわゆる頸肩腕症候群の病訴の加工ないし固定の要因としては、筋緊張、精神的心理的緊張などの関与が考えられるので、個々の症例に応じて適切な療養(例えば薬物療法、理学療法、体操、作業上の配慮、生活指導、精神衛生面よりの助言、指導など)を行えば、おおむね三か月程度でその症状は消退するものと考えられる。したがつて、三か月を経過してもなお順調に症状が軽快しない場合には、他の疾病を疑う必要があるので、鑑別診断のための適切な措置をとらなければならない。」

3 そこで、基発第五九号通達の認定基準の該当性について検討する。

(一)  原告の業務

右通達記1の(3)にいう上肢の動的筋労作または上肢の静的筋労作を主とする業務に相当期間継続して従事した労働者であつて、その業務量が同種の他の労働者と比較して過重である場合または業務量に大きな波がある場合とは、結局、解説七の(1)作業態様、(2)作業従事期間、(3)業務量の三要件該当性を判断することとなる。

原告の記録係における作業が記帳と記録運搬を主とする作業であることは前記のとおりであり、記録運搬作業のうち両手を前に出して記録を前抱えに持つ運搬が上肢の静的筋労作に該当することは明らかであり、記帳も頸部を前屈位で保持することが必要とされる作業に該当するものと解するのが相当であるから、原告の記録係における作業は全体として右解説の作業態様の要件を満たしているというべきであり、原告の記録係における業務量及び勤務期間は前記認定のとおりであつて、原告が同種(記帳作業)の女子職員の業務量より相当程度超過し昭和四〇年から右発症まで二年二か月間従事しており、原告の記録係における作業が右解説の作業従事期間、業務量の各要件を満たしていることは明らかである。

(二)  原告の業務以外の原因の有無

原告には外傷及び先天性の奇形、その他原因症患が存しなかつたことは前記のとおりである。

そこで、原告に頸肩腕症候群の発症の要因となる素因等が存するか否かについてみるに、証人平林冽は、原告の頸肩腕症候群の発症には原告の素因が一つの要因となつていること、原告の素因としては肩こり、加齢的要素あるいはなで肩であることが考えられる旨供述しており、昭和四二年三月八日付診療録によれば、原告には小さい時から肩こりがあつたことが推認される。しかし、これらの要素がどの程度原告の頸肩腕症候群の発症に原因を与えたかを明確にする証拠もなく、後記(三)において述べるように、原告の業務の内容と原告の症状の間には相関関係が存することが認められ、原告が統計係及び共済組合係においては他の女子職員と同一の事務作業に従事していたことは前記のとおりであるが、症状は次第に回復し、昭和四八年三月には一部症状が残つているものの、仕事を詰めてしてもよくなり、残業もやれる状態まで回復したことを考慮すると、加齢的要素、肩こり、なで肩など原告について考えられる素因は頸肩腕症候群の発症に考慮しなければならないほどの影響を与えていなかつたと考えるのが相当である。

なお、〈証拠〉によれば、労働基準監督署の頸肩腕症候群に関する業務上外の認定実務においては、認定の原則は、作業態様、作業従事期間、業務量の三要件で判断するものであり、三要件に該当することは、業務以外の原因による発症が明確な場合など特別な理由がない限り業務起因性を認定する取扱いであることが認められる。

(三)  頸肩腕症候群の発症・推移と業務との相関関係

原告の担当職務は昭和三五年八月一一日から昭和三八年七月一九日まで民訟庶務係に、同月二〇日から昭和四三年四月七日まで民訟記録係に、同月八日から昭和四五年一〇月一日まで事務局資料課統計係に、同月二日から事務局出納課共済組合に所属し、その所属が変更されることに職務の内容が変つたこと、記録係に所属しているときに業務の変更が三回行われ、昭和四一年一月一日から既済記録のうち完結記録について点検作業が免除されたことから記帳作業と記録運搬作業の負担が一部軽くなつたことは前記のとおりであり、更に、昭和四二年三月一七日から法円坂分室への記録運搬の免除、同年五月一〇日から記録運搬の全面的免除、同年四月八日から同年五月六日まで病気休暇等により全業務の免除がなされたことは当事者間に争いがなく、右事実によれば、原告の頸肩腕に与える影響からみると、原告の業務は昭和三九年から昭和四〇年にかけて最も厳しく、その後記録運搬が免除され、また、所属が替わることに次第に軽減され、現在の職務が最も負担が軽いことが認められる。

ところで、二及び三において認定した事実を総合すると、原告は昭和三九年五月から昭和四〇年二月まで肩痛症という頸肩腕症候群の前駆症状が現われ、昭和四二年二月になつて急激にその症状が出て、昭和四二年三月一七日から法円坂分室への記録運搬が免除されたにもかかわらず症状が悪化し、昭和四二年四月一〇日から約一か月間全業務を免除されて療養した結果症状は急速に回復したこと、しかし、記録係に復帰して記帳作業に従事するようになつてから、同年夏には一時回復したものの、同年秋から冬にかけて初診時の症状の外に、右下肢に疼痛や感覚鈍麻、就寝中のこむら返りの症状が現われ、右坐骨神経炎の症状も現われたこと、昭和四三年四月に統計係に配転してからも急速な回復がみられず、同年六月に肋間神経痛の症状が現われ、昭和四四年一一月の特別定期健康診断では「右上肢に訴えはあるが、他覚的所見に乏しく経過観察の必要あるが、平常の生活でよく、医師の直接または間接の医療行為は不要」と診断されるに至り、その後もゆるやかに回復し、昭和四八年三月には一部症状が残つているものの、仕事を詰めてしてもよくなり、残業もやれるような状態にまで回復したことが明らかである。

原告の右症状のうち、右下肢に症状が現われたのは昭和四二年九月から一〇月にかけてであり、その症状に関係があると考えられる記録運搬作業は昭和四二年五月一〇日から全面的に免除されており、右下肢の症状は免除されてから四ないし五か月後に発症しているのであつて、原告の業務と右下肢の症状には関連性はないというべきであるが、その余の原告の頸肩腕症候群の発症、症状の推移は、一時的な消長は認められるけれども、全体として原告の業務内容の変更と関連性が認められ、特に、病気休暇と症状の回復には明確な関連性が存するのである。

被告は、原告が昭和四二年五月一〇日以後記録運搬作業を免除されたのにその後三か月以上も症状が継続したことに疑問を持ち、因果関係を否定する根拠としているけれども、昭和四二年から昭和四三年にかけての記帳作業は、その作業の主要部分を占める目録作成に関係する上訴件数の増加などからみると、昭和三七年頃から比べて約四割程増えていることが推認され、原告の記録係における記帳作業は、それだけでも同種の女子職員の作業量としてほぼ一名分に近い負担量を持つていたこと、記帳作業も頸肩腕に悪影響を与えることは前記のとおりであり、記録運搬作業を免除されたとはいえ、このような業務量を有する記録係にそのまま配置したことは、頸肩腕症候群の罹患者が約一か月間の休暇療養後職場復帰をして担当する職務としてはその作業量を考えると必ずしも適切ではなかつたといわざるを得ず、これらの事情を考慮すると、原告の症状が継続することは十分考えられ、被告の右主張は失当というべきである。

なお、労働基準監督署の業務上外の認定実務において、「個々の症例に応じて適切な療養を行なえば、おおむね三か月程度でその症状は消退するものと考える。したがつて、三か月を経過してもなお順調に症状が軽快しない場合には、他の疾病を疑う必要がある」といわれているのは、他の基礎疾病ないし素因がなく、業務を主因として発症したものであれば、医学常識上三か月程度の適切な療養により、症状の消退をみるであろうということであつて、三か月間の療養をもつて、頸肩腕症候群はすべて治ゆするということではないと解されており、適切な療養とは、前記解説八に記載するとおり、作業上の配慮、生活指導、精神衛生面よりの助言・指導などを含むものであり、原告に対する作業上の配慮が十分でなかつたことは後記のとおりである。

4  以上において認定した原告の記録係における業務内容、業務量、業務従事期間、原告の既往症と症状の経過、原告には頸肩腕症候群の発症に影響を与えるほどの素因は存しなく、他に原因もなかつたこと、基発第五九号通達及び解説の認定基準では原告の頸肩腕症候群と記録係における業務との間に因果関係が存する場合に該当することなどの諸事実に〈証拠〉を総合して判断すると、右下肢の症状を除く原告の頸肩腕症候群の発症とその後の症状の継続は、医学的常識に照らし原告の記録係における義務に起因して生じたものと納得することができるものであり、したがつて、右両者の間には因果関係が存するというべきであつて、前記吉田及び馬場各証言のうち右認定に反する部分は措信できず、その他右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

五被告の責任

1 債務不履行責任について

国は、国家公務員(以下公務員という)に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設等の設置管理又は公務員が国若しくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたつて、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務を負つているものと解すべきであり、右の安全配慮義務の具体的内容は、当該公務員の職種、地位及び安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等の諸般の事情を総合考慮して決定されるものというべきである(最高裁昭和五〇年二月二五日判決参照)。

これを本件についてみるに、原告の記録係における業務は既済件数並びに上訴件数によつて影響を受けるものであり、右件数はいずれも原告が記録係に配転された昭和三八年から増加に転じ、昭和三九年五月に法円坂分室ができてから特に既済件数が増加し、更に、昭和四〇年に入つて既済件数並びに上訴件数が激増したこと、したがつて、原告の全業務も昭和三九年頃から徐々に忙しくなり、昭和四〇年には一般の女子職員の業務量より相当程度超過していたことは前記のとおりであり、〈証拠〉によれば、大阪地裁当局も、民訟の業務量が一般的に増加し、特に昭和四〇年一二月一三日の分会と民事首席とが交渉した際には、事件係が忙しく増員するようにとの要請及び原告の所属する点検係の業務が忙しいという実情の申出を受けたこと、しかし、その対策は裁判部の方が優先される結果、民訟は後まわしになる傾向にあつたことが認められ、右民事首席交渉の結果、昭和四一年一月から原則として完結記録について点検作業が免除されたことは前記のとおりであつて、以上の事実によれば、当時の大阪地裁当局は原告の業務が相当忙しいことを十分承知していたものということができる。

一方、頸肩腕症候群は、発症の初期には他覚的症状に乏しく、自覚的症状が先行するものであり、また、昭和四二年当時においては、タイピスト、速記官などの手指を主に使用する職種についてはともかく、一般事務従事者にも業務遂行の結果として頸肩腕症候群の発症のありうることは一般的に認識されていない状況にあつたものと推認することができるから、本人からの申出がない限り、使用者としては一般事務従事者に頸肩腕症候群の発症したことを窺い知ることができない状況であつたということができる。

そうすると、原告から吉田医師の昭和四二年三月一五日付診断書が提出される以前においては、単に原告の業務負担量が増大したことから、大阪地裁当局に、原告に対し問診するなどして頸肩腕症候群の発症の予防ないし発見をする具体的義務を課することはできないというべきである。また、原告が身体の異常などを上司に申出ることについて、これを困難にさせていたという状況があつたと認めるべき証拠もない。

なお、原告が昭和四二年二月一日右前腕に症状が現われ、同月二八月市立大学病院で受診したところ、右上肢神経炎と診断されたことは前記のとおりであり、原告本人尋問の結果によれば、原告が、その後間もなく、大阪地裁当局に対し右のことを申出たところ、当局から診断書がない限り具体的な対策はとれない趣旨のことを言われたことが認められるが、本人の申出の裏付けを要求したことについては何ら非難されるべきではなく、当然の措置というべきであつて、大阪地裁当局が右申出によりすすんで医師から状況を聴取するまでの義務はないというべきである。

次に、原告から診断書が提出された以降の安全配慮義務についてみるに、およそ診断書が提出された以上、当該公務員が疾病に陥つていることは明らかであるから、被告には、医師の意見を聞くなどして右疾病が業務によるものであるか、否かなどの調査をし、業務以外の他の原因によることが明らかでない場合には、個々の症例に応じて専門医による適切な療養を受けさせる一方、業務内容、業務量について適切な軽減措置をとるなど症状の悪化を防ぎ、その健康回復に必要な措置を講ずる義務があるというべきである。

原告が主治医の吉田医師の診断書を大阪地裁当局に提出したのは昭和四二年三月一五日付、同年四月八日付、同年五月一〇日付、昭和四三年四月一〇日付の四通のみであること、これに対して大阪地裁当局がとつた措置として、それぞれ診断書の提出に応じ昭和四二年三月一七日から法円坂分室への記録運搬を免除し、同年四月一〇日から五月六日まで原告の申出による病気休暇を許可し、職場復帰後記録運搬を全面的に免除し、昭和四三年四月八日原告を記録係から統計係に配転したことは前記のとおりであり、大阪地裁当局が原告の主治医の吉田医師に対し原告の業務における配慮の仕方等について問合せをしたことを認める証拠はない。

右の事実によれば、大阪地裁当局は診断書が出される都度、その判断により診断書に副うべく原告の業務を軽減してそれなりの措置をとつたのであるが、右措置が適切なものであつたといえないことは、昭和四二年三月一七日から法円坂分室への記録運搬を免除してからも症状が悪化し、ついに病気休暇をとるに至つたこと、更に、職場復帰後記録運搬業務を免除したのみで記帳作業を従来どおり担当させた結果、原告はその後発症時の状態に戻つたものであり、記帳作業だけでも同種の女子職員のほぼ一名分に近い事務量があつたことを考えると、職場復帰後の原告の業務量としては過重であると考えられることからも明らかであるというべきである。

前記各診断書による原告の作業上に関する所見は、昭和四三年三月一五日付においては、「重量物運搬や手を持続的に使用する業務を禁じる」旨、同年四月八日付においては、「業務続行は不可と考える」旨、同年五月一〇日付においては、「なお激しく手指を使うと再燃の恐れがあるので休業以前のものより軽い業務ならば就業してよい」旨、昭和四三年四月一〇日付においては、「事務機械作業厳禁」と記載されており、右診断書のうち昭和四二年四月八日付の作業上の指示は明確であるけれども、他の指示はかなり抽象的であつて、果してどのような指示をしたのか理解し難い部分があるというべきであり、また、原告の作業態様は一般的には事務機械業務とは解せられないのに、事務機械業務厳禁ということも理解し難いというところである。したがつて、大阪地裁当局は右のような診断書が出された以上、吉田医師の意見を聞くなどしてどのような配慮が必要かを具体的に問い正す必要があつたにもかかわらず、このような措置をとらず、前記のとおり、段階的に業務内容、業務量を軽減したにすぎなかつたというべきである。これを要するに、当時の大阪地裁当局は、作業上の注意事項について不明確な診断書が提出されたのであるから、医師の所見を具体的に確定して症状増悪の防止、健康回復の必要な措置を講ずべき義務を怠つたものというべきである。

しかしながら、原告の発症の仕方は昭和四二年二月二〇日過ぎに至つて急激といつてもよいものであるが、それ以前にも既に昭和三九年五月から昭和四〇年二月まで肩痛症の診断名により治療を受けており、また、発症した直前の昭和四二年二月一日にも前腕に痛みを覚えて投薬を受けていたものであることは前記のとおりであり、頸肩腕症候群は発症の初期には他覚的所見に乏しく、自覚的所見が先行するものであることを考慮すると、原告は発症のきざしを自覚したときにこのことを積極的に大阪地裁当局に申告して具体的対策を相談するなり、自ら速やかに専門医の診療を受けて適切な処置を受けるべきではなかつたかと考えられる面も否定できない。更に、原告が昭和四二年五月に職場に復帰して昭和四三年四月に統計係に配転になるまで原告の症状は昭和四二年秋頃から悪化し、寒くなるに従い発症時の症状に戻り、そのうえ別の症状が現われたのにその後主治医の診断書を大阪地裁当局に提出したのは昭和四三年四月一〇日のことであつて、その間に受けた治療は薬物療法と鍼灸治療のみであり、原告自身ももう少し積極的に主治医の吉田医師の意見を聞くなどしてきめ細かく療養を行なうとか、自己の業務について適切な指示を求めるべきであつたと考えられるが、原告がそのような相談、指示を求めたこと、あるいは主治医の吉田医師もその間原告の業務について適切な指示を与えた形跡を認めるに足りる証拠もない。

右のとおり、原告にも自己の健康保持の面からみて十分でなかつた面が認められるのであるが、そのような事情があるからといつて、前記のような被告の安全配慮義務の成否に影響を及ぼすことがないことはもとよりである。

2 不法行為責任について

(一)  発症、増悪を防止すべき義務違反の原告の主張に対する判断は、安全配慮義務違反について判断したのと同一である。

(二)  迅速な認定、審査手続をなすべき義務違反の主張について検討するに、公務員の災害補償に関する認定、審査手続が迅速になされなければならないことはもとよりであるが、本件全証拠を総合検討してみても、本件事案の特殊性を考慮にいれると、原告の災害補償に関する認定、審査手続に六年余の期間を要したことをもつて社会通念上著しく遅延したものと認めることができないので、原告の主張は理由がない。

六損害

1 〈証拠〉によれば、原告は、頸肩腕症候群の治療のために、昭和四四年七月八日から昭和四九年三月二八日まで加賀屋診療所で鍼灸治療を受け、合計金四万九五〇〇円を支払い、吉田正和医師のもとに通院して治療を受け、昭和四六年一二月二四日から昭和四九年六月四日まで通院のための交通費として金二万四五二〇円を支払い、また、同医師に診断書作成費用として金一五〇〇円、意見書作成費用として金一万円を、水野洋医師及び細川汀医師に意見書作成費用としてそれぞれ金五〇〇〇円を支払つたこと、更に、原告は頸肩腕症候群のために約一か月の病気休暇をとつたために勤勉手当金四八八円を減額されたことが認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

そうだとすると、原告は右支払及び勤勉手当の減額により右と同額の損害を受けたものであるが、前記のとおり、原告にも自己の健康保持に十分でなかつた面があることを考慮すると、被告に負担させるべき損害額は金四万八〇〇〇円をもつて相当とする。

2 原告が頸肩腕症候群に罹病したのは昭和四二年二月で、当時二六歳であり、それ以来昭和四四年一一月にかなりの症状の回復をみて、その後症状は次第に消退したものの昭和五一、二年まで続いたことは前記のとおりであり、原告のその間の精神的負担は個人生活上も職場生活上も相当大きいものと推認されること、原告にも自己の、治療、健康保持などに十分でなかつた面があること、その他諸般の事情を総合すると、被告に負担させるべき慰藉料は金五〇万円とするのが相当である。

3 弁護士費用

原告が本訴提起にあたつて訴訟に関する一切を原告代理人らに委任したことは本件記録上明らかであり、本件事案の難易度、本訴で認容される額その他の事情を総合して判断すると、被告に負担させるべき弁護士費用は金一〇万円をもつて相当と解すべきである。

七結論

以上のとおりであるから、被告は原告に対し、前記六の1ないし3の合計金六四万八〇〇〇円及びこれに対する頸肩腕症候群の発症した後であり、本件記録上明らかな本訴状送達の翌日である昭和四九年六月二八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。

よつて、原告の本訴請求は、右金員の支払を求める限度で正当として認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を適用し、なお、仮執行の宣言については相当でないから付さないこととして、主文のとおり判決する。

(上田次郎 安斎隆 下山保男)

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